たくさんのお悔やみ、ありがとうございました。
返事コメントをこのブログに変えさせていただきます。


母は、6月16日朝7時半ごろ、同居の嫁が出勤で、行ってきますの言葉に、手を振って見送ってくれたそうです。

8時20分ごろ、勤務先のナースセンターに、、すぐ家に換えるように伝えてくださいと連絡があったそうです。

お姉さんは、どしたんかな? と思いながら電話すると、ちょっとえれえから帰ってきてくれる?
といわれたそうです。

少々のことがあっても電話してきたことがほとんど無い母

雨の中、急いで帰るとベッドで
意識無し
脈とれず

すぐ救急車で病院へ

母は、骨粗しょう症で両足にチタンの人口股関節として15年
血管ももろくなり、ちょっと当たると青あざ

脳の血管でも? とCTスキャン 問題なし。

胸のエコー検査
心臓の周りが真っしろ

心臓からの大動脈乖離による大出血でした。
出血が心臓を圧迫もして手がつけられない状態

結果9時25分 永眠しました。

私が連絡を受けたのが8時42分
すぐに車で向かいましたが、50km 1時間の距離
間に合うすべも無く、運転中に亡くなったとの連絡を受けました。

彼女は大正8年3月生まれ
戦時中に結婚して、満州に
満州で長女が生まれ、長男が生まれてすぐが終戦

ご主人は、捕虜でシベリア抑留  そこでなくなりました。

命からがら、乳飲み子をおんぶして日本へ
ヘルメットでおしめを洗いながらのたびだったそうです。

帰国後、助産師をしてたくさんの子供を取り上げました。

その後、頼まれて注射を打ちに行っていた、結核の男性を(妻の父)と大恋愛をしベットのままでいいので結婚させてくださいとお願いし、養子に来てもらったそうです。

そうして結婚、二女(私の家内)、三女を出産
ご主人は昭和43年に病気で亡くなりました。

女学生時代は、流線型とよばれるぐらい足が速く、成績も良かったそうです。

私の家内は、母から私は夫を二人もなくしたが、あんたは大事にするんよと、常々口癖のように言われていました。

12年前、長男はを心筋梗塞で亡くしてからは長男の嫁と一緒に暮らしていました。

ドライブが好きで、国道313が大好きで、車の番号は313です。
お姉さんは、良くドライブにつれて行ってくれました。

母の晩年は、天理教の布教所長として生きがいを感じていたそうです。

告別式は、3百数十名の会葬があり、改めて母の偉大さを感じました。

孫10名、ひ孫9名(年が変わるとひ孫11名)の盛大な見送りが出来ました、

孫長男が喪主を勤め、立派に送り出しました。

日曜日は、名簿の整理に朝7:30出発で行ってきました。
今日も行ってきます。

文章ばっかりのながったらしいブログですが、私の記録としています。

母が毎日見ていた花です。
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日曜日の夕方、みんなで福山市大門のお寺さんにお礼に行きました。
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福山東インターから岡山インターまで

高速休日割引最後を走りました。
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倉敷インター手前、大阪方面へ走っています。

下りは事故か?鴨方あたりを先頭に15kmぐらい渋滞していました。



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